聴覚過敏者にとって地獄のような期間@日本の選挙
音に敏感な人たちにとって、選挙期間ほどストレスの溜まる期間はないだろうと思う。

私も選挙期間は特に、耐え難い騒音に悩まされる日々を過ごしています。
もちろん、対策はしているものの 音量や音質、天候次第で耳から入ってくる騒音もはげしさを増すのを感じる。
※対策に関しては別の記事に書いていきます
選挙カーから拡声器をつかい有無を言わせず大声で叫ぶ候補者たち。
これがなぜ公道で許されているのか、理解はできない。

なぜこんな横暴が見過ごされたままなのだろう
この記事を書いているまさに今ちょうど選挙期間最終日の夕方とあり
「最後のお願いに上がりました!!!」と叫ぶ候補者の声が
窓ガラスの向こうからけたたましく鳴り響いてきます・・・
国(総務省)のサイトにある選挙の項目で“現行の選挙運動の規制”というものがありますが、
そこに音に関するものは見当たりませんでした。
リンク:総務省_現行の選挙運動の規制
騒音問題_住宅街に選挙カーが入って来る意味って?
過敏症でなくとも人が住んでいるエリアや(一般住宅、マンション等の集合住宅等)学校や、入院療養施設があるエリアでは、もちろん寝ている人だっているだろうし、具合がわるかったり痛みなどで苦しんでいる人たちもいるでしょう。
とても集中力を発揮しなければならない人もいるかもしれないし、授業に励んでいる子どもや学生さんだって大勢いるわけで、やっと眠った赤ちゃんだっているのは当然であろうと思う。
画像を探していたらこんなイラストを見つけました!
↓↓↓

イラストAC_こうらぼさんのイラストから
まさにこんな感じのお母さんもいることでしょう。
赤ちゃんをやっと寝かしつけたところであの音量で叫ばれたらヒステリックになる気持ちがものすごくわかります。
敏感な体質のお子さんであればなおのこと。
私もそんな子どものうちのひとりだったのでお母さんの気持ちを考えると・・それがまた子育て中でストレスが溜まっていて親のイライラが倍増することに繋がり・・悪循環です。
そんな悪循環の発端を、国や地域の代表に選ばれようといている人間が肝心の住民のことを置いてきぼりにして有無をも言わさず行ないを続けていてよいのでしょうか?
聴覚過敏な私が学生の頃〜小学生 中学生の頃の授業中に
もちろんまれに「選挙の音なんて全然気にならない」という人もいるかもしれない。
だけど選挙期間、いくつものの拡声器を装備して大音量で街を走る選挙カーの音が『全く気にならない』とか『歓迎している』という人に私は出会ったことがないし、半世紀の人生でそういう話を聞いたことがありません。
自分がとくに小学生〜中学生時代の授業中では、けたたましいあの声が聞こえて来れば教師だって顔をしかめ困惑していたし、はっきりと「本当にどうにかならないのかね〜」と言葉にする先生もいましたよね。
今の時代はその辺りどう変化しているかは把握していなけど、学校の教えでは基本
「授業に集中すること」と指導されるものだし全生徒がそれを求められるものですよね。
教師だって人間だし、普段自分たちが言っていることに矛盾した行動を公共の場で平然ととる大人たちに対して不満や怒り、納得出来ない気持ちが生まれて当然です。
しかもその“大人”というのが、国や地方の大事なルールを決めたりする人たちのことで
国民、住民の代表や代弁する立場にある大人たち。
いくら当選したいからといって、
住民に迷惑行為を続けて来たこの慣習って、いったい何なのでしょうか。
しつこいようですが、過敏な人にとって選挙期間の選挙カー(拡声器を何台も使用して行なう声をあげる活動)からの音は公害でしかありません。
先ほどふれた選挙の音が気にならない人には出会ったことはないけれど
一般的な騒音が“気にならない人“というのをネットで検索してみたら
『そんなことは気にしない』とか、元々『気にならない、関心がない』という人もいらっしゃいました。そりゃそうだよね。
ただ、ここではそういった方たちと、
生まれつき過敏体質な人や、
いま実際にストレスや疾患から調子をくずして苦しんでいる人たちと比べても意味がありませんから。
長年ストレスでしかない選挙活動の騒音について
今まで言えなかったことをブログに書いてみました^_^;
そう、
たとえ言いたいことはある!という人がたくさんいたとしても、
なかなか実際に、声をあげづらい雰囲気のあるこの国なのですね。
徐々によい方向に変わって来ているのをじわじわと感じてはおりますが、
まだ時間はかかりそうかな。
聴覚過敏の人がすでに予定が決まっている騒音に悩まないために
感覚については人それぞれひとりひとり違うもの。
感じやすい人も感じにくい人も、その間くらいの人も存在している。それでいい。今の私は素直にそう思えます。
過敏体質=神経質という言葉で結びつけないで
『神経質』という言葉をその人がどう捉えているかによる
ただ、過敏体質の人のことを『神経質』というひと言で片付けようとする一部の心ない方たちが存在する。幼い頃から五感それぞれの感覚にとても敏感だった私も、このように言われることは数知れずで
直接言葉をぶつけられなくても遠回しだったり、間接的に聞いてしまう場合があったりで幼かった私の心はとても傷付いてきました。
そうして子供の頃から「自分は敏感だ=私は人とは違って神経質だ=神経質な私はおかしい=神経質はネガティブなこと」という風に自分に対して、つまりそういうセルフイメージを付けてしまったのです。
人から言われたことをネガティブに捉えないヒント
ただ、今はこの考えからは解放されています。
『神経質』という言葉に対しても単なる三文字熟語と認識できるくらいまで、とは言わないけど笑
それでも『神経質』=『悪』みたいなイメージはほとんど外れてきました。
過去に、年齢的にごく幼い頃やこころがまだ未熟極まりなかった頃に、他者からネガティブに言われた時(そう感じとってしまった時)に自分が勝手に神経質と言われることやそれそのものが『悪』とか『人の道から外れるようなもの』みたいに結びついてしまったに過ぎなかったのです。
今でも一瞬「!」ってドキッとすることもあるけど笑
「ああ、それは私が勝手にイコールにしているだけで言葉は単に言葉であって、ネガティブな意味を持たせなくてもいい」と思い直すことができるのです。
だからこれを読んでくれてるあなたがもしも以前の私のように、人から言われた何気ないひと言に傷ついてしまうようなことがあったら、そんな風に考えなおしてみてください。
無理に考え直そうとすることは少し意味が違って来ますが、まず傷付いた感覚(嫌だなとか悲しいとかっていう感情)を認めた上で客観的にその事実を見つめ直す。
これはまず自分の感情を正直にシンプルに認めてあげることが出来て初めて、客観視できるものだと認識しているので、どんな感情でも間違いも正解もないのでジャッジしないでまずは認めてあげましょう^^
自分がそうだったのですが、小さい頃から頻繁にそんな体験をして来ると、逆に自分の1番の味方である自分自身こそが、誰よりも自分のことを無意識的に批判したり否定するまでいかなくても、肯定することが出来なくなってしまうことがあるんです。つまり自分の素直な自然にあらわれた感情さえも認めてあげることがむずかしくなってしまう・・これはとても悲しいことですよね( ; ; )
本来なら、誰に認めてもらえなくても自分が自分のことを認めてあげることが出来ていれば、ネガティブに感じる出来事が起きたって本当の意味で自分を守ってあげられる。
と言っても五感それぞれの感覚が敏感であるならば、こころで受け取る感じ方も繊細なことも少なくないのだろうと思います。
でもね、感覚が繊細で敏感なことと、こころが強いか弱いかというのは別のもの。
昔はこの違いがわかりませんでしたが今の私ならハッキリそう断言出来るようになりました。
感覚は敏感でも、こころまで敏感である必要はないから。その強さ弱さというのもそれぞれのはかりでしかないけれど、自分の大切なこころを自分以外の誰かに判断させなくていいのですから、ね^^
話を元に戻し
生まれつきの器質がそうであるなら、いくら対策をしていても対処対応してみても気になるものは気になるしうるさいものはうるさく感じます、感じていい。
選挙カーから放たれる拡声器をつかった騒音は本当に、本当に大迷惑です。
ひとにやさしい選挙って、暮らしって、まだまだ難しいのでしょうか・・
そんなことを書きながらも私は、自分が望むやさしい世界
やさしい社会で生きることを望み
自分にできることを見つけて実行していきたいと思っています。